物語を読むフェーズから自叙伝読むフェーズに移り変わりました、我still読書の秋です
自叙伝みたいな本を読んだ時に見えてくる一人称視点の実家像が見えるのが面白いと思ってます。
その度に、自分のif像みたいなことを結構考えます。これって何度もこの思考回路に達する度にこの時間無駄かもーって思ったりしますが、それでも度々やってしまう。この道を歩んでいたら、みたいなこと、時に後悔が付きまとうのでやめた方がいいんだろうなと思っている。そういう気持ちを持っているとゆっくりやめる気持ちが湧いてくるんだろうなとおもっているところはある。
話は戻り、自分の家庭の豊かさやそこから享受してきたものについて考えてみたいと思ってきました。
私の家は元々転居を度々考えなければいけないようなかんじなのですが、私が幼稚園生くらいの時に今の実家が建ち、そこからは家族みんなで動くみたいなことはしていない。家は本当に和なところにあって、山が一望できるような立地。大学を選ぶ時に、東京に憧れる気持ちはあったけれども東京に住んでいる自分が想像出来なさすぎて、そちらの方面は選ばなかった。そして大学もまた山を一望できるような立地のところで、大学生の時にふと「自分って雪が降らない場所に住んだら狂ってしまうんじゃないか」と考えたこともあった。外に出てみて自分の地元の地域って好き!って思うのは自分的に良しとしようという気持ちがあったので、自分の地元がとても好きだという気持ちがあっても自分で気付かないふりをしようとしてて奥の奥にしまって置いてた気がする。実際本当に好きなんだと思う。趣味に生きる大人たちが地元にいることもその気持ちの背中を押している気もする。
幼い頃から美術展に連れて行って貰えた環境は今の自分を明確に形作っているとおもう。今はれんが美術館になっている場所で、2005年に奈良美智が個展 A to Zをしていたところに4歳の時に連れて行ってもらった。ぼんやりと覚えているのは、会場の中に小屋のような建物がたくさんあったなということ。その中に彼は作品を展示していて、それは、ずっと自分が空間作りたいと思っていることの発端なんだと思う。私が生まれたタイミングが良かったからか、青森県にある美術的文化に触れさせてもらえる機会が多かったことはとてもありがたいと思っている。感想で討論するまではいかないものの、家族で美術館に行って、なんかよかったよねということを感じられることは豊かだと思う。あまり親は意識していないかもしれないけれど、私が美術に本格的に興味を持つまでにはそういったバックグラウンドがあった。
父親は電気工作などに造詣がある。母親は書道をやっていたり手芸をしていたりして手を動かすことに造詣がある。だから私がものを作ることに関して結構シビアだったりする。父親の趣味に関してはまだまだ分かり得ていないところがたくさんあるから面白いと思う。テレビ台の引き出しの中にPS4-5にかけてのソフトがたくさんある。どういうゲームが好きなの?と聞いてみたところ、「世界がウイルスに苛まれていく系」が好きらしい。趣味の言語化がすごい。一息で言ってたからな。家族でテレビを見ていて、新作映画のCMが流れていたとき、これみたいな〜と私が言っていたところ、父は休みの日にそれを1人で見に行ったらしい。聞くまで知らなかった…、そういうひたむきさがある。母は約反対方向に意識があり、楽しいこととかおいしいこととかはみんなで共有したいよね、というところがあるようで、自分が直接興味のない映画だとしても家族がみたい映画だったらということで一緒に見に行くことが多い。大抵そういう時は母と弟と私で映画を見に行って、帰り道の車の中で感想を言い合ったりする。その時間が母は好きらしい。わかる、いいよね。
と、そういう父と母の上で私がいるってわけだ。両親、という自分の立場からみた2人ではなく、人として両親2人を考えた時に見えてくるところは面白いなと思います。
そういうところを考えたくてこれを書きはじめました。改めて考えてみないとありがたみに感謝することって難しいからね。今回はそういう回でした。